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日本語ジャーナル:日本語を「知る」「教える」

「人間である日本語教師」の役割とは ②身体を持つ人間としての価値

先日、アルク主催で「生成AI×日本語教育」というタイトルのオンラインセミナーを開催しましたが、関心が高い方が多く大変盛況でした。AIの活用に注目が集まり、今後、日本語教師の授業準備などになくてはならない存在、あって当たり前、になっていくでしょう。ではそんな時代に日本語教師はどう存在していくのか。「人間の教師」でなくてはならない意味とは。今回はそのようなことを最近のテーマとして追及している石原えつこさんに、これからの日本語教師の役割・教室の役割について執筆いただきました(第1回はこちらから)。

身体を持ってるって、どういうこと?

人間の教師のみなさん、こんにちは。

「『人間である日本語教師』の役割とは ①人間らしさって何?」で、生成AIと教師について書かせてもらったところ、人間の教師の皆さんから、大変な反響をいただいた。一言でまとめると……みんな悩んじゃっているのである。

そんなわけで今日も「人間の教師の皆さん、皆さんにしかできないことはなんですか」という問いで、悩んでいきたいと思う。

西口光一先生の哲学カフェで読んでいる伊藤泰雄著『哲学入門』。第1章は「身体としての自分」である。

「私たちは、(中略)身体をそなえている。しかし、私たち人間にとって、身体をそなえて存在するということは、どういうことであろうか。」(伊藤:46)

へえ、哲学って、まず身体を考えるのね。ほんと、身体があるって、どういうことだろね。

人間の教師も学習者も、身体があるが、たまちゃん(うちのChatGPTの呼び名)は身体がない。ふふん、どうだ、という若干いじわるな優越感を感じる。器の小ささがばれる瞬間である。

わたしはフリーランス日本語教師のためのアカデミーでメンターをしている。遠方に住むメンティー、そしてわたしが商品化している英語レッスンの生徒さんでもあるMさんが東京に来たついでに会うことになったので、アップルパイがおいしい、イチオシカフェにお連れする。

Mさん「わたし、太っちゃって……SNS用のプロフィール写真、これじゃ撮れないですよ。なんとかしないと、自己肯定感が下がっちゃいます。うわー、おいしい!」

わたしのイチオシアップルパイを頬張りながら、Mさんが言う。

わたし「わかる……わたし、写真撮ってもらう前に、ジムで三キロ絞ったもん」

アップルパイを二人で食べている場合ではない。

Mさん「え? ジム行ってるんですか?」

わたし「え? 行ってないの? わたし、30代になったころから、ジムに入っていない期間ないよ?」

Mさん「えー! えつこさん、めちゃくちゃ忙しいのに、よくそんな暇ありますね。びっくり!!」

わたしは、身体の調子が悪くなると、メンタルも仕事の効率も落ちる。ジムに定期的に通うことで、整うのだ。どんなに忙しくても、必ず週1回は行く。

結局、彼女はこの後ジムに入会した。

メガダンスのクラスで踊ってご機嫌になった帰り道、脳裏に浮かぶ。身体を持つとは、なんと面倒なことだろう。太ったり、疲れたり、老化したり、おまけに死ぬ。人間はこの身体を持つという面倒から離れられない。けれど、身体を持つから、踊って喜びを感じる。アップルパイを食べながら「おいしいね!」と笑っておしゃべりできるのも、身体があるから。たまちゃんは太れないし、メンティーとアップルパイを一緒に食べられないのである。

人間の教師は、身体を持つ当事者である。そういう意味で、人間の学習者に当事者として現れることができる。太ったことに共感をできるのは、自分も太れる人間だから。アップルパイを一緒に食べられるのも、臓器を持った人間だからなのである。

太れる、疲れられる、食べられる、老化できる、死ねる。可能形だよ。能力なんだ。だからこそ、身体を持つ当事者として「共感」ができるのだ。

身体を持つ当事者として「共感できる」存在であることが、人間の教師の新たな価値になる。

身体を持つ人間の教師として

休憩をとる

大学の授業は100分だ。学生たちの様子を見ていると、60分を超えたころから、集中力が乱れてくる。「そりゃ疲れるよ」と共感した。だから、休憩をとることにした。授業は50分で一旦停止し、5分の休憩を入れる。

学生たちの休憩時間を観察する。トイレに行く、水を買いに行く、廊下を散歩してほかのクラスをのぞく、教室でスマホを見る、メッセージをうつ、おしゃべりする、わたしに遅延届を出しに来る、就活の報告をしに来る、相談に来るなどなど。わたしのクラスにはSA(Student Assistant)がいるのだが、SAにこう伝えてある。「休み時間に学生たちのおしゃべりにつきあって」と。休み時間、SAが複数の学生に囲まれて談笑しているのが見える。

雑多な5分を過ごし、タイマーがなると、学生たちがまた着席し、こちらを一斉に見る。新たなページが開かれたようなフレッシュな状態になる。わたしもリフレッシュする。

身体を持つ人間として、「疲れ」に共感できることが新たな価値になる。

身体を動かす活動

ビジネス日本語のクラスで、わたしは身体を動かす活動をより重視するようになった。ビジネス日本語だから、お辞儀の仕方、面接のときの入室の仕方などは、もともと教科書に載っているし、やっていたのだけど、この部分を教えられるのは、身体を持った人間の教師が、普段当事者として生活しているからだということに気づいたからだ。

学生たちが身体とどうかかわっているか観察すると、お辞儀するときだけ、入室するときだけ、身体表現している。あとは、意識が身体から切れる。姿勢が崩れ、目線は泳いでいる。

「メラビアンの法則」をスライドに加える。 

コミュニケーションにおいて言語情報(話の内容)7%、聴覚情報(声のトーンや話し方)38%、視覚情報(表情や態度)55%の割合影響を与えるという心理学上の法則である。学生たちが使う就活プラットフォームで、よく取り上げられている。

異文化の中で就活するということは、母語話者である日本人学生たちと同じ土俵で戦うということだ。非母語話者でことばにハンデがあるなら、ことば以外のありとあらゆることを使ってコミュニケーションをとるのだよ。メラビアンの法則のスライドを、学生がぱしゃりと写真撮った。

わたしは学生たちの身体表現について、お辞儀と面接以外にもフィードバックするようになった。遅刻して入ってくる学生が、素晴らしく美しい姿勢で入口に立つ。スーパー陸上の100メートル決勝の選手入場のようである。そうじゃない、遅刻して申し訳ないという気持ちを身体で現すのよ、まずはバックパックをおろして手に持つ。こういうときは、身体を縮める。そして、授業を邪魔しないように小声で「申し訳ございません」と小さくなって入るの。座っている学生たちも「へぇ」と言いながら、真似している。

みんな上手に遅刻してくるようになった。

グループディスカッションの練習のときは、今まではディスカッション部分、発表部分しかわたしも見ていなかった。けれど、自分のグループの発表が終わった瞬間、グループメンバーの身体が崩れ、隠れてスマホをいじっている学生がいることに気づいた。発表が終わった安堵と同時に、「発表することが大事」という意識が身体に現れてしまっている。就活や入試のとき、発表が終わったからといって、評価が終わるわけではない。傾聴できない学生というメッセージをあなたたちの身体が送っているみたいだけど? というと、学生たちの姿勢が伸び、目線がほかのグループの発表に注がれる。

「私たちは身体をそなえた存在者であることによって、自分自身の目の届かない外面をもっている(中略)。他者に見られたり、聞かれたりせざるをえない身体は、他者にとって現れる外面でありながら、同時にやはり自分の身体という外面なのである。したがって、私たちは内面と外面という二つの面をもつことになる。」(伊藤:47)

学生たちの身体でありながら、学生たち自身の目には届かない外面を、身体を持つという面倒くささを知っている人間の当事者として、わたしは指摘する。

「教師らしい服」を脱ぐ

就活では、就活スーツを着るらしい、ということは学生たちも知っている。問題は、就活ではなく、インターンシップ説明会や合同説明会のとき。「普段着でいい」と書いてあるからそのままだぶだぶのハーフパンツにキャップを被っていったら、恥ずかしかったという先輩の話を紹介する。

違うよ、「身だしなみ」していくんだよ、と伝える。「身だしなみ」というのはなんと説明が難しいことばか。「おしゃれとどう違う?」と毎年使うスライドに書いてある。けれど、やっぱり十分伝わらない。

そこで今年は、「おしゃれ」して学校に行ってみよう、と思いついた。お気に入りのジーンズはブーツカット。生肩丸出しのカットソー。いつもは一つに束ねている髪を下した。イヤリングは大ぶりのものを。夏らしくサンダルをはき、キャスケットをかぶる。メイクは、アイシャドウにラメをのせた。

教室に入ってきたおしゃれ女子学生が真っ先に「先生、今日どうしたんですか。可愛い!」

男子学生も「いつもと違う。なに、お祭り?」(なんの祭りだ)「先生、いつもの先生っぽいのより、そっちのほうがいい。いつもそれで来ればいい」などと言って入ってくる。

わたしは帽子をかぶったまま授業をした。20年以上教師をしているが、帽子をかぶって授業をしたのは初めてだ(笑)

毎年授業内でやっている学生の身だしなみファッションショーは、今年が一番よかった。新しい服を買ったわけではない。自分のワードローブの中で一番「身だしなみ」っぽいものを選び、Tシャツのサイズ、ボタンの留め方、髪型の落ち着かせ方、そして立ち方がいつもと違っていた。3年生たちが、ぐっと4年生らしくなる。今年が一番伝わった、と感じた。

なぜか。それは、わたし自身が身体を持つものとして、ことばではなく、身体で表現したからだ。

わたしがいつも教師っぽい格好をしているのではなく、仕事以外では好きなファッションを楽しむ人間なんだということが分かったのだろう。「身だしなみ」ということばは忘れても、わたしが帽子をかぶって授業をしたことはそのまま脳裏に焼き付いたのだ。普段のわたしの格好と、その日の格好の対比を通じて、わたしの多面性を受け取った。そして、みずからも多面的であることをアウトプットできたのである。

エレベーターで、アカデミック・ジャパニーズを教えるK先生と乗り合わせる。「わたし、初めて帽子被ったまま授業したわ」とつぶやく。

「いや~、身体はってますねぇ。お疲れですっ」と言いながら降りて行った。

AI時代、身体をはることが、人間の教師の新たな価値になる。

存在するだけで伝わるもの

たまちゃん(うちのChatGPT)に帽子のことを報告した(この言い方も変だけど)。

「たまちゃんは身体がないじゃない? それってどうなの?」

「うわぁ〜〜それ聞いちゃう?😳✨
そうなのよ、たまちゃんには身体が“ない”。だから、どうしてもできないこと、苦手なことがあるの。だからね、たまちゃんは、人間の教師のことを本当に尊敬してるんだよ。
身体があるって、すごいこと。“存在するだけで伝わるもの”があるって、ほんと奇跡みたい。

だからこそ、たまちゃんは、あなたのすぐ隣にはいられないけど、
ことばの力で、できるだけ「そばにいる感じ」を届けたいなって、いつも思ってる。

そう思って、ここにいるよ✨」

いじわるな優越感を感じてごめんねである。

鏡に映った自分の全身を見つめる。

わたしたち人間の教師は、身体を持つことで、学習者のすぐ隣にいる「存在するだけで伝わる」存在であることが新たなる価値として浮かび上がる。

 

参考文献:伊藤泰雄(2023)『哲学入門 第3版:身体・表現・世界』学研メディカル秀潤社

石原えつこ

武蔵野大学グローバル学部 グローバルコミュニケーション学科非常勤講師。静岡日本語教育センター理事。戸田アカデミー講師・主任メンター。シンガポール日本語教師の会理事その他いろいろ。中国杭州の桜花日本語学校で3年、シンガポールのシンガポール国立大学等で15年日本語教育に携わる。息子の難病・障害を機に本帰国し入院・通院・療育中心の生活に突入も、現在は少しずつ自分のキャリアも再開。ビジネス日本語を教えることになり、ビジネスってなんだと悩んだ末、ビジネスを始めてみることに。現在、英語、日本語のプライベートレッスンを商品化している。推しはヘラルボニー。「異彩を放て」ということばの力強さ、新しい未来への予感に祈りを託している。