
今回、「日本語教師プロファイル」でお話を伺ったのは、現在、愛知県の南山大学で教鞭をとっていらっしゃる内山百合子さんです。「私なんて記事にするようなこと何もありませんよ」とおっしゃるのですが、インドネシア、中国、タイ、ロシアなど海外での豊富な指導経験、現在取り組んでいること、これからの希望などについて参考になるお話をたくさん聞かせていただきました。
海外へ行くために日本語教師に
――日本語教師を目指そうと思ったきっかけを教えてください。大学は日本語科ということで高校生の時から日本語教師を目指していたわけですね。
はい、高校の国際科みたいなクラスにいて英語の授業が多かったんですが、「私は将来外国に住みたい。英語が話せることはいいことだけれど、ネイティブスピーカーじゃないから、むしろ自分の言語を大事にしたほうがいいんじゃないか」と気づいたんです。そんな時たまたま進学関係の本で「日本語教師」という職業を知りました。これだったら世界中に行けるんじゃないかと思いました。ちょうど香取慎吾主演の日本語学校を舞台にしたドラマがあって、日本語教師が認識され始めた頃だったと思います。すぐそれに飛びつきました!
ラッキーなことに地元に日本語学科のある南山大学があったので、大学入学までは順調に行きました。
――大学入学までは?
はい(笑い)。大学では、体育会の水泳部に入ったんですが、そこで部活動に熱中してしまいまして…。泳いでから授業に行くので、授業では眠くなり……。必然的に落ちこぼれていました。ただ日本語教師を諦める気持ちはなく、卒業後は養成講座に通おうと思っていました。卒業式の日に坂本正先生が「卒業後、どうするんだ?」と聞いてくださって、「養成講座に通おうと思っています」と答えたら、「養成講座は行かなくていいから、インドネシアに行きなさい」と。すぐに「行きます!」と答えて日本語教師としてインドネシアに行くことになりました。
実は4年生の時に水泳部の仲間とNHK「のど自慢大会」に出たことがありまして。そこで「4年生だけど就職が決まっていません!」って、全国放送で話してしまいました。坂本先生はそれをご存じだったのかもしれません。すごく後進を育ててくださる先生なので。
余談ですが、水泳部での経験は仕事をしていく上での基礎体力がつきましたし、お酒を飲む力もつきました(笑い)。そして、プールがあれば世界中どこでも泳げるので趣味としてもよかったと今は思っています。
インドネシアでの挫折、大学院、企業での仕事
――インドネシアはいかがでしたか。
インドネシアでの生活は楽しかったのですが、やっぱり経験もないのに教えられませんよね。特に受け持ったのがビジネス日本語のクラスで、仕事をしたこともないので本当に教えることができませんでした。当時は挫折を感じました。でも、今思うと日本語教師の根幹になるような大事なことを学んだと思っています。
それは、一人一人とちゃんとコミュニケーションをすること。その時にたまたま日本語を使っていること。ですから、今も15人のクラスであっても、一対一のクラスを15個やっているような感覚で教えています。
インドネシアでは日本語学校に所属して、そこから派遣で大学に教えにいったりもしましたが、ビザの更新のタイミングで日本に帰国しました。ちゃんと教え方を学びたいと思いました。そして日本語学校に非常勤講師として籍をおきながら、大学院で学び始めました。
大学院生時代には、アルクの通信講座の実習ビデオに出させていただいたんですよ。そこで大失敗をおかしまして、まあ悪い例として、役に立ったのかもしれませんが。
大学院を終えた頃は、留学生が減って、日本語関連の募集が少ない時期でした。それならと一般企業で働くことにしました。インドネシアでの経験から、将来ビジネス経験も必要になると思ったので。しかしまったく日本語教育から離れるのも嫌で、地元の岐阜県可児市の地域日本語教室で教えてもいました。月~金は会社、日曜日は日本語教室といった形で。
今は必ずしもそういう考えではないのですが、当時はビジネス日本語を教えるならビジネス経験が必須だと思っていました。NTT関連の会社でソフトウェアを売る仕事のアシスタントをしました。NTTだったので伝統的な日本企業のフローがあり、PCのソフトの使い方もいろいろ教えていただき、可愛がっていただいて本当に感謝しています。お酒も随分飲みに連れて行ってもらいました。
それで、ある時、DELLが中国で社内の日本語トレーナーを募集しているのを見つけたんです。あらあら、私これいいんじゃないかと。NTTで働いた知識と日本語教育の知識を生かせるのでは? 日本語教育の世界に戻りたいというのもありました。
中国でビジネス日本語を教えて分かったこと
――それで中国へいらっしゃったんですね。
そうですね。また海外で教えたいという気持ちもありました。私はこれが絶対専門とか、これだけ実績があるからこれができるはずとか、そういうものがそもそもなかったので、何にでも挑戦したかったんです。当時はマルチな教師になるというのも一つの目標でした。必要とされるなら、そこで日本語を教えたいと思っていたので躊躇なく飛びつきました。
中国での経験はいい面も悪い面もありました。日本語教師という存在をネガティブに捉えてしまったこともあります。日本語教師って何なんだろうと。会社の中で働いていると、我々日本語トレーナーはお金を生み出していなくて、使っている方です。それなのにお金を生み出してくれる営業の人たちに偉そうに指導する。そうすると、やっぱり言われた方も気分がよくなくて、ちょっと反発されたこともありました。「私たちが先生」みたいな感じで偉そうにしちゃいけないんだ。彼らのメンツをつぶさないで、いかに気分よく学んでもらうか。エンカレッジ、つまりやる気を出させるような言い方を身に付けなければいけないんだということに初めて気が付いたんです。それは私にとって良い学びになりました。
――中国で教えた後は日本に帰国されたんですか?
いえ、それが中国ではビジネス日本語ということで、ずっと上級者に教えていたので、初級も教えたいという欲望がむくむくと湧いてきて。ちょうどタイのバンコクの学校で初級もビジネス日本語も教えられるという仕事を見つけまして、日本へは戻らず直接バンコクに向かいました。自分の中の「したい」という欲望に忠実なんですね。
タイはとても楽しかったです。日本語が好きで学びたいという前向きな人たちが多かったので。こちらからのエンカレッジだけじゃなく、向こうからの働きかけもすごく大きかったです。向こうから日本語学習が好きだという気持ちを出してくれるとこちらも楽しくなりますよね。やはり相互関係だなと思いました。
ハローワークからロシアへ
――その後は日本に戻られて?
はい、プライベートなことで戻ったのですが、いろいろあって。仕事がない! という状態になりました。それで仕事を探しにハローワークに行ったんです。するとハローワークの仕事を紹介してもらいました。名古屋外国人雇用サービスセンターというところです。そこで最初は留学生担当としてエントリーシートの書き方や日本語指導をしました。ところがリーマンショックが起き、トヨタ系の工場の南米の方々がクビを切られてラッシュアワーのように人が溢れたんです。
そこで日本語教育の経験と知識があるのが私だけだったので、受付に行ってくれと言われました。「やさしい日本語」の知識があるのも私だけでした。受付で1人1人面談して、この人はこのぐらいの日本語ならできるから日本語だけでやってもらおう、この人はどうがんばってもできないので通訳さんをお願いしよう。そういう切り分けをやりました。日本語教育の知識がこんなところでも使えましたし、「やさしい日本語」は本当に必要だと思いました。
その中でも時々留学生の指導をしていましたが、よく考えたら、自分がちゃんとした就職活動をしていないことに気づき、エントリーシートを書いてみました。それで自分のが通るのかどうかと思って、日ロ青年交流事業でロシアに派遣される仕事に出してみたんです。そうしたら通ったんですね。「書き方よかったじゃん」と思っていたら、あれよあれよと言ううちにロシアに行くことになりました。
ロシアでは中国との国境に近いハバロフスクの大学に赴任しました。当時いつか大学で働きたいという希望がありました。ただ日本の大学は高等教育機関で教えた経験のある人を採りたい傾向があるように思ったんです。それで将来のために大学で教えたかったというのがありました。
日本語教師という肩書のない経験で得た変化

――ロシアはいかがでしたか。
ロシアには5年間滞在しましたが、大学で教えていたのは最初の2年間だけです。実は結婚した関係で配偶者ビザになり、働けなくなったんです。それでもボランティアで日本語を教えることはしていました。初めて「日本語教師」という仕事を離れて海外に滞在する経験をしたわけですが、これは私を大きく変えたと思います。
やっぱりずっとそれまでは、日本語の先生だから「教えるんだ。日本を教えるんだ」ということがすごく強く出ていたと思います。「日本はね、日本はね」と。これは日本語教師の悪い点だと思います。相互関係でないと、人間関係はなりたちませんよね。今までインドネシア、中国、タイに住んできましたが、私はどれだけ彼らを理解していただろうかと思います。彼らの文化、行動規範、どれだけ理解していたんだろうとその時にすごく反省しました。
ロシア語を学べば学ぶほどいろいろな人と話せて、今まで先生の時だったらあまり交流していなかった人たちとも交流できて、いろんな考えを聞いて、日本語教師じゃない経験は本当によかったと思います。教えるんじゃなくてお互いの情報交換、相手から自分も学ぶ、生活者としての視点、お互いに情報交換し合って深めていく。そういうのが日本語教師だった時は欠けていたなぁと思いました。
その後、日本に戻り、これも坂本先生のつてで、富山大学で教えることになりました。現在は南山大学で教えています。また、それまでお話があってもお断りしていた養成講座の仕事もやるようになりました。私は日本人に教えるより日本語を学びたい人に教えたいと思ってきたのですが、自分自身に迷いが出てきた時期だったので一度違うことをしてみようと思いました。いずれ海外へ行って日本語教師たちと共同で何かすることもあるだろうから。
そうしたら、養成講座の仕事も楽しくて。あ、そういう風に捉えるんだとか、こんな教え方もあるんだと。逆に私が受講生さんから学んでいます。客観的に日本語の授業を見るということがよかった。やっぱり人生経験が素晴らしい方が多いです。いろんなスキルをお持ちの方が、そのスキルと日本語教育、両方生かせる仕事があればいいのにと思いますね。企業で世界中に駐在していて技術系の知識もある方が、教えるのは日本語学校で留学生というミスマッチは本当にもったいないと思っています。

将来の希望は
――現在のお仕事について教えてください。日本語教員試験向けの本も共著で出されましたね。
あれも坂本先生からです。本当にお世話になっています。日本語教師って本当に人的ネットワークが大切です。コネと言ってしまえばコネなんですが。いろいろなお仕事をもらえたり、学習者と外の人を繋げて、学習者が日本企業で働けたりということもできるので、日本語教師はどんどん外に出ていくべきですね。いろいろな人と繋がって、いろんな意見を吸収しそれを教室に還元するといいと思います。
現在は交換留学生に教えているのですが、大学では正しさを重視する授業をずっとやってきています。私自身は、タスクを使ってできることを目指すやり方の方がしっくりくるのですが。これは今も自分の中の課題です。正しさと行動中心は2項対立ではないと思っていて、うまくミックスできればいいと思っているのですが。
ただ、友人からある意見を聞いて衝撃を受けたことがあるんです。実は交換留学生たちは国で既に行動中心的な授業はやっている。そこで正しさが身に着かないから日本に行って、そこで正しさを身に付けて来いという要望があるんだそうです。私が考えているようなことは外国で経験を積んだ教師が陥りがちな考えだよねと言われてしまいました。それまで「構造主義なんて古い古い」と思っていたけれど、古い新しいではなくて、私自身、以前は構造主義の箱の中に入っていたのが、今は行動中心の箱の中にまた入ってしまったのと気づきました。
小さい箱の中に入ってこれがいいんだというのは良くない、目の前の人たちをよく見ようと思うようになりました。この学生たちは何を求めているんだ。何ができたらもう一歩先に行け、彼らのしたいことができるのか。以前は間違えてもいいんだと思っていましたが、間違いなくきれいに話せたら言いたいことがすぐ伝わるんですよね。今、課題は、大学のテストは細かく正しさを求めるものなのですが、そこにコンテクストを入れて、実社会の場面を想像できて使えるようになるような、構造と行動両方の良さを取り入れたテストを開発したい。そこを毎日、毎日考えています。
そういう時にすごく助かったのはCHEERSさんです。第一人者の方を呼んできて対話活動や、いろんなことをしてくださっているので、そこでいろんな人と話ができて自分の考えを振り返ったりできて、本当に有難いと思っています。

――今後の目標はありますか。
実はインドネシアに行った当初から最終的にこれがしたいという目標は国際交流基金の上級専門家なんです。ある国の日本語教育をマネージするような仕事をいつかやりたいと思っています。大学院へ行ったのも、初級からビジネス日本語までマルチな教師になりたいというのも、その目標があったからです。今の仕事が終わったらチャレンジしようと思っている。
――そう思ったきっかけはありますか? 目指す方がいたとか?
そういう方はいません。そこに日本語を学びたいという人がいれば、私はどこにでも行くよと思っているのですが、それを堂々と安心した形でできるのがJF専門家です。肩書があって、かつその国どこに行ってもいいよというのは基金から派遣される仕事なんじゃないかなと思っています。ふんわりとした理想ですけど、ずっとそれを目標に頑張っています。
例えば、ウクライナの戦争が終結したら、ウクライナに行きたい。ことばの教育は平和教育だと思っていますが、そこを先陣切っていくのが日本語教師です。
――どんなところに魅力を感じますか?
日本語を使って、できることが増えるのが目の前で直ぐわかることです。学生たちが日本語を学んだことでこういった仕事ができるようになって世界が広がったと言います。これができるようになったという報告をもらえる。誰かの人生を少しだけでも広げることができたと思うと、本当にいい仕事だと思います。
伝えたいこと
――日本語教師として海外で教えてみたいと思っている人に何かアドバイスはありますか。
海外に行きたいと思っている人に関して言えば日本語教師であれば、環境として日本語を話せる人がいるはずだから、まずは恐れるなと。恐れず懐に入れ。それから「自分は先生」と思わず一人の人間として、あちらの一人の人間と交流をしにいく。その中で日本語を使いながらお互いの理解を深めていくという姿勢が求められます。そういう人にはかならず相手も心を開いてついてきてくれるので、先生と言う意識を捨ててください。
――国内で教えるのと海外で教えるのに違いを感じますか。
以前は海外で働くとその国の人しかいないから答えが似通っていて、だけど国内で教えるといろんな国の人がいるからいろんな意見の交換ができて、日本は日本で楽しいぞと思っていたんです。
しかし、ある時、CHEERSさんの講座で細川英雄先生に言われました。「国が同じだったら同じ意見しか出ないの? 本当に?」
確かに国が同じでも内在しているものは一人一人違うはずです。それをうまく引き出せていなかったんです。そこに考えが落ち着くと、学習者は一人一人違うので、海外でも国内でも同じ。ただし、生きた日本語に触れられるのはやっぱり日本国内です。海外だとその点は苦労しますね。教室に日本語話者を呼んでくるには人的ネットワークが必要です。積極的に自分が外に出て行ってネットワークを作っていかないと、学生たちが教室の中でしか学べなくなってしまいます。交渉力、ネットワークを作る力は、海外の方がより強く求められると思います。
実は、インドネシアにいた時は、人と付き合うのがなかなか難しかっったんです、周りの人に恥ずかしがらないでと言われていました。でも日本語を教えているうちに、どこか変わっていったんだと思います。
取材を終えて
「私のことなんて何も書くことないですよ」とおっしゃっていましたが、いえいえ、波乱万丈なヒストリーでお話に引き込まれました。そしてところどころにお酒のお話が出てきましたが、水泳部と会社員時代の修行でかなりの実力者とお見受けしました。愛知県では日本語教育界の大飲み会があるそうで、その幹事サポートの役もなさっているそうです。



