
現在、国内外における日本語教育の需要は一層高まりを見せており、学習者の多様化や社会の多文化化に対応した日本語教育人材の育成が、これまで以上に重要な課題となっています。こうした状況のもと、2024年には「日本語教育機関認定制度」と「登録日本語教員制度」が導入され、日本語教師需要の拡大に向けた取り組みが急ピッチで進められています。今回は、およそ40年前に言語学者・寺村秀夫が展開した日本語教員養成の実践に焦点を当てます。寺村は日本語研究の世界的権威として広く知られていますが、日本語教員養成の分野でも先駆的な役割を果たしたことは、必ずしも広く認識されているわけではありません。本記事では、その具体的取り組みと意義を明らかにし、今日の日本語教育人材の育成に与える示唆を考察したいと思います。(田中祐輔/筑波大学教授)
寺村秀夫の日本語研究と日本語教育研究
寺村秀夫*1は日本語研究の世界的な権威で、その学術上の功績は「日本の体系的な記述文法といった荒れ地を耕し、そこに美しい豊かな花を咲かせた偉大なる開拓者」*2と称されています。中でも「連体修飾のシンタクスと意味―その1~その4」(1975-1978)は日本語の名詞修飾表現に関する画期的研究とされ*3、言語研究を基盤とした日本語教育の実践と日本語教育の発展を目的とした日本語研究は、日本語教育研究の分野においても大きな足跡を残しました*4。日本語教育学会の機関誌『日本語教育』掲載の1,803本の論文と16,205本の引用文献を分析した調査では、寺村が最も多く引用された研究者であることが明らかになっており、日本語教育研究における影響力の大きさが指摘されています*5。
寺村の研究は、青年期に学んだ英語学や英語教育の知識を土台としつつ、欧米の言語理論や日本語教育の実践経験、そして日本語そのものに対する新しい視点を組み合わせてつくられた独自の体系に基づいています。こうした知見は「寺村文法」として知られ、今でも日本語を理解するための重要な考え方の一つになっています。
1960年代の初め、寺村は米国イースト・ウエスト・センターの奨学生として渡米し、ハワイ大学、ワシントン大学、ペンシルベニア大学で学びました。修士号取得後の1965年には大阪外国語大学に赴任し、留学生別科で日本語を学ぶ学生たちの指導に携わります。寺村は、この実践経験が研究を深める大きなきっかけとなったと後に語っています。(以下、引用文中の下線は筆者による。また、文中の人物の役職などは文脈当時のもの。)
どんな分野にもあることだと思うが、それを専門とするのでない人間からみれば、どうしてそんな当り前のことを当り前でなく考えるのかということがよくある。ニュートンのリンゴの話とか、鏡に映る像は左右逆なのにどうして上下逆にならないのかとかいったような議論もそのたぐいである。しかし、当り前のことを大まじめで考えるのが知恵というものの始まりであって、それを考えるきっかけはどこにころがっているか分からない。私の場合、これまでの文法研究をふりかえってみると、考えようとした問題は、外国人学生の質問がきっかけになったことが多い*6。
大阪外国語大学では、日本語教育の実践や大学院教育に深く関わりながら、初級から上級まで幅広いレベルの日本語教科書の制作にも取り組むとともに、現代日本語文法に関する研究も精力的に進めました。
国立国語研究所での日本語教員研修
次なる転機は1971年の夏に訪れます。大阪外国語大学で開催された「日本語教育研修会(現職者研修)」(文化庁・国立国語研究所主催/外国人のための日本語教育学会協力)において討論会のコーディネーターを担当することとなったのです。以後1976年まで「近代の言語理論と日本語教育」や「文法と文法教育」など毎年続けて日本語教員養成のための講座を担当することとなりました。1973年に講座受講生に配布されたオリジナル教材の目次には、日々の教育実践で出会う「誤り」から発想を得た文法のあり方について解説されていた様子が読み取れます。

この国立国語研究所の教師研修の仕事は、後述する教員養成課程の設置や教育指導者育成の道につながる重要な契機の一つとなりました。
「調査研究会」への参加と教員養成の枠組み検討
1979年、寺村は筑波大学文芸言語学系に着任します。この頃の日本は日本経済の増進を背景に日本語学習者数が急増し、1984年から1985年にかけて調査された海外の日本語学習者数に関しても、1974年との比較において実に7.5倍に達する状況でした*7。時を同じくして留学生受け入れ政策も検討され、1983年に「21世紀への留学生政策に関する提言」(21世紀への留学生政策懇談会)が、1984年には「21世紀への留学生政策の展開について」(留学生問題調査・研究に関する協力者会議)が発表されました。この二つの取り組みと関連施策は「留学生10万人計画」と総称され、2000年までに毎年平均14.2%の留学生前年比増(1983年の10,428人を基準値とする)が数値目標として定められました(図右部)。
こうした日本語学習ニーズの高まりと教員需要の増大を受け、日本語教育施策の推進に関する調査研究会は「日本語教員の養成等について」(1985年)を公表しました。同報告では、2000年には約24,900人の日本語教員が必要になるとの推計を示した上で、日本語教員養成機関の整備・充実や、「日本語教員養成のための標準的な教育内容」に基づく知識と能力の育成が不可欠であると文部省に提言しています。

その後の経緯を図の左側に時系列順に示します。この一連の流れの中でも寺村は重要な役割を担っていくことになります。まず、前項で述べた日本語教育施策の推進に関する調査研究会では、中川秀恭・元国際基督教大学長が座長を務める17名の学識経験者の一人として、国際学友会日本語学校長の金田智成、日本語教育学会専務理事の木村宗男、言語文化研究所附属日本語学校長の長沼守人、名古屋大学総合言語センター教授の水谷修らとともに参加しました。そして、1983年9月20日より開始された会議において、日本語教員養成の在り方そのものを検討する議論に、寺村は極めて重要な立場から関わることとなります。それは、国立大学として初となる日本語教員養成課程の設置という大きな使命であったのです。
筑波大学の土壌と日本語・日本文化学類の創設
この当時、筑波大学には、日本語教員養成課程を設置するための基礎が整えられつつありました。既に大学院では、日本語研究と日本語教師養成を柱とする先駆的プログラムが運用されていて、修士課程地域研究研究科の「日本語教師養成プログラム」や博士課程文芸・言語研究科の「外国語としての日本語教育研究」特別プログラムなど、日本人学生と外国人留学生の双方を対象とした高度な教育体制が確立されつつありました。
こうした環境を背景に、福田信之・筑波大学学長(当時)は文部省宛の調書で、言語学、日本文化、外国語、教育学、情報工学など多様な領域の研究者が揃い、日本語教育を支える体制が十分に整っていることを述べています*8。また、日本語研究や教師育成を大学院で早くから実施してきた実績、さらに創基以来外国人留学生を積極的に受け入れてきた伝統も大きな強みとされました。特に、1872年の師範学校創設以来の長い歴史、嘉納治五郎*9による留学生受け入れ制度の確立、1984年度に新設された留学生教育センターの存在などは、日本語教育の理論と実践を結びつける特徴を裏づけるものでした。
これらの条件を踏まえ、1984年5月19日の第114回教育審議会では、日本語・日本文化学類の内容やカリキュラムを検討する「日本語・日本文化学類設立準備委員会」の設置が正式に承認されました。準備委員会は執行部2名と各学系からの教授計20名で構成され、その中には元号「令和」の考案者として知られる中西進教授も含まれていました。
設立準備委員会を主導した寺村秀夫は、新たな学類の骨格として「現代日本語研究」と「日本語教授法」を中核に据え、これらを「日本文化研究」と「国際的教育環境に関する研究」が支えるという構想を提示しました。寺村のこのビジョンは、『IDE 現代の高等教育』(民主教育協会)に発表された論考に明確に示されています。
われわれはこれから新しい日本語の研究・数育の分野を築いていこうとするわけであるが、具体的な教育内容としては、次のような構成になる。まず中核になるのは、いうまでもなく、日本語そのものの研究と実習である。次にそれを外国語として教えるさいの方法の研究がある。そして、日本語の研究を周囲から支えるものとして、日本文化の諸側面についての研究がある。また、日本国内で教えるにせよ、海外で教えるにせよ、異なる言語、社会、文化との接触、交渉の中でそれは行われるのであるから、そういう国際的な環境の中での教育のあり方についての研究も必要であろう。(中略)学類の中核として日本語の研究と日本語教授法の研究を据え、それを包み、支える形で日本文化の研究、国際的環境の中での教育研究を配するという構成が考えられた。あえて数量的比率をいえば、この三者は8、5、3、というぐらいの比率になろうか。4年制大学だからそれにいわゆる一般教育(外国語、体育など)がある。核になる日本語研究のそのまた核は、「現代日本語研究」で、主に言語要素別(音声・音韻、語彙、文字、文法など)や言語生活、言語工学的研究などに分化している。それの理解に奥行きを与えるものとして、日本語の歴史、日本語研究の歴史に関する授業科目があり、日本語を外国語と比較対照するための対照言語学の方法や一般言語学、社会言語学、言語心理学などが、言語学的な見方を養うために設けられている。日本の文化については、文学、芸能、思想、政治、経済など、現代日本文化、社会の特質や、その背景の歴史についての知識やその理解の仕方に関わる科目が用意されている。国際的な環境の中での教育を考える科目としては、教育思潮の比較対照や異文化間教育の問題を扱うものが計画されている。外国語としては、国際語としての英語力を養うことを重視する一方、学生が特に関心をもつ地域の言語、文化についての概観を得ることができるように配慮している*10。
寺村は、筑波大学における日本語・日本文化学類のカリキュラムやコースの構想において、この分野を新しい学問・教育領域として構築するという理念の下、カリキュラムの設計を進めました。
こうした動きと歩調を合わせるように、文部省も日本語教員養成の制度整備を本格的に進めていきました。1985年2月26日の第102回国会・衆議院予算委員会の会議録には、筑波大学を「中核的な機関」として位置づけ、日本語教員養成と制度拡充を推進することが大崎仁文部省学術国際局長発言として記録されています。
日本語のいわば教員養成の制度が現時点で必ずしも十分ではございませんので、日本語の教員養成のための中核的な機関といたしまして、やはり明年度筑波大学に日本語・日本文化学類というような学類を設けまして、そこで日本語教員の養成のいわば核になるように育成を図ってまいりたいというようなことも努力もいたしておるわけでございます。*11

こうして1985年4月、国立大学として初めて日本語教育を主専攻とする「日本語・日本文化学類」が筑波大学に設置されました。入学試験には初年度から受験生が殺到し、4月に行われたこともあり、他大学の在籍学生までもが受験に参加するという異例の状況となりました。定員40名に対して949名が志願する競争率20倍強の試験では、大学側も教室確保や臨時バスの増便などの対応に追われた様子が写真にも残されています*12。最終的に46名が合格し、うち44名が入学しました。4月25日の入学式で福田学長は、日本語と日本文化を担う国際的人材として活躍することへの期待を述べ、この日をもって、寺村秀夫が身を賭して設置に尽力した筑波大学の日本語教員養成課程の歴史が、本格的に幕を開けました。
卓越した日本語教育人材の育成

寺村は日本語・日本文化学類において、国内外の教育機関や在外公館、国際企業など、幅広い現場で活躍できる国際的視野をもった日本語教員の育成を目指しました。そのために編成されたカリキュラムには、日本語を適切に教えるための専門性に加え、日本文化・社会・歴史への理解、異文化間理解や国際交流に関する知識、さらには情報機器の高度な活用力が盛り込まれました。こうした学際的な教育プログラムは、当時の日本語教員養成に新しい視点を導入し、日本の大学教育における先駆的な取り組みとなりました。
寺村はその後、過労による深刻な体調不良を抱えながらも、人事や人材育成に力を注ぎ、教育体制の基盤づくりに尽力しました。ようやく軌道に乗った1987年、寺村は学類を離れることになります。しかしその後の約40年間にわたって、日本語・日本文化学類では寺村の理念を受け継ぐ教職員によって教育と研究のバトンが引き継がれ、今日までに2,000名を超える卒業生を輩出するまでに発展しました。育てられた人材は、国内外の大学や研究機関、官公庁、企業、国際機関など多様な分野で活躍し、寺村の志は確かな形となって実を結びました。
寺村秀夫の構想した日本語教員養成は、日本語を教える人材の育成にとどまらず、日本語教育を通じて社会と世界に働きかける指導的人材の育成を目指したものでした。言語・文化・国際理解を基盤とする学際的カリキュラムは、当時の日本語教員養成にはなかった新しい視座を持ち込み、日本語教育を大学教育として本格的に位置づけた先駆的な取り組みと言えます。その根底にあったのは「日本語教育という新しい学問領域をどう創り、社会の中でどのような役割を果たしていくのか」という、より本質的な問いでした。
今日、日本語教育の役割は教室の内側にとどまりません。医療、福祉、就労支援、地域共生など、社会の様々な場面で「ことば」を支える専門性が求められています。日本語教育人材は教育専門職であると同時に、社会課題に向き合う公共的専門職へと役割を広げつつあると言えるのです。
こうした新しい社会状況の中で、日本語教員養成を単に不足する教師を確保するための仕組みに押し込めてしまうと、本来期待されている役割に十分応えられなくなる可能性があります。社会の変化を後追いするだけでは、日本語教育の視点から未来社会をつくる人材を育てることはできないからです。だからこそ今、教員養成のあり方やビジョンそのものを問い直し、未来社会を共創できる卓越した日本語教育人材を育成することが求められています。その意味で、40年前に寺村が取り組んだ日本語教員養成の実践は、これからの社会に求められる日本語教育の姿と、それを担う人材育成の方向性を考える上で、重要な知見を与えるものと考えられるのです。

寺村秀夫(Hideo TERAMURA)1928年兵庫県揖保郡龍野町生まれ。大阪外事専門学校英米科を経て、1953年京都大学法学部を卒業。大阪府内の高等学校で英語科教諭として勤務した。1961年から1963年まで米国East-West Center奨学生としてハワイ大学・ワシントン大学・ペンシルバニア大学で学び修士号取得(ハワイ大学・Master of Arts.)。大阪市立鶴見商業高等学校に勤務後、1965年に大阪外国語大学に着任し留学生別科専任講師として日本語を学ぶ外国人学習者の指導にあたった。1968年から1970年までカンザス州立大学東洋言語文学科の客員教授を担当。大阪外国語大学助教授時代の1971年夏に、文化庁主催・外国人のための日本語教育学会協力(於:大阪外国語大学)として開催された国立国語研究所の日本語教育研修会(現職者研修)において「討論会」を担当し、日本語教師研修に関わることとなる。翌年、同研修会の初心者研修において「文法と文法教育」を担当。以後1976年まで毎年参加し、その後の教員養成課程の設置や指導の端緒となった。1974年大阪外国語大学教授に昇進。1979年筑波大学言語・社会学系に着任。1985年国立大学初となる日本語教員養成学科である筑波大学日本語・日本文化学類の創設の主軸を担い、初代教授として日本語教員養成課程のカリキュラムや教育内容、教育方法を築き国内外に大きな影響を与えた。1987年大阪大学文学部に新設された日本語学講座に招聘される。1990年、急性心不全のため逝去。享年61歳。1990年、正四位勲三等旭日中授章。 |
執筆/田中祐輔
筑波大学教授(人文・文化学群日本語・日本文化学類/人文社会科学研究科文芸・言語専攻)。主な著書に、『日本語で考えたくなる科学の問い』(編著・凡人社)、『上級日本語教材 日本がわかる、日本語がわかる』(編著・凡人社)、『現代中国の日本語教育史』(単著・国書刊行会)、などがある。主な受賞に、第32回大平正芳記念賞特別賞、2018年度日本語教育学会奨励賞、第一回岩佐賞、第14回キッズデザイン協議会会長賞、2023年度グッドデザイン賞、などがある。
*科学技術振興機構 researchmap:https://researchmap.jp/read0151200
*研究室: https://www.facebook.com/AGU.TANAKA.Lab
*1:写真は筑波大学着任から一月後に訪中した際に撮影されたもの(最前列)。向かって右端は上海外国语学院日语系初代主任、中国日语教学研究会第二代会長などを歴任した王宏氏。中国江蘇省,1979年5月7日撮影(王宏氏提供)
*2:仁田義雄(1991)「寺村秀夫の日本語文法研究への誘い」『阪大日本語研究』大阪大学大学院人文学研究科基盤日本語学講座,pp11-23
*3:プラシャント・パルデシ(2017)「寺村秀夫 連体修飾論文英訳集」国立国語研究所
*4:野田尚史(2011)「新日本語学者列伝 寺村秀夫」『日本語学』383,明治書院,pp84-93
*5:田中祐輔・川端祐一郎(2021)「掲載論文の引用ネットワーク分析―日本語教育研究コミュニティの輪郭描写―」『日本語教育』178,日本語教育学会,pp79-93
*6:寺村秀夫(1988)「文法随筆 その1一思い出す学生たち 時間ガアリマセン」『月刊日本語』アルク,p12
*7:国際交流基金(1975)『海外日本語教育機関一覧(昭和50年)』国際交流基金/国際交流基金(1987)『海外日本語教育機関一覧』凡人社
*8: 『筑波大学原議書』起案1984年10月9日/決裁1984年10月11日p.11
*9:嘉納治五郎(かのう じごろう)。日本の教育の発展を牽引し、体育とスポーツの普及振興にも尽力した。また、留学生教育やオリンピックへの参加と招致にも力を注ぎ、国際文化交流を推進した。https://nj.alc.co.jp/entry/20200628-kano-jigoro
*10:寺村秀夫(1985)「筑波大学における日本語教育研究と日本語・日本文化学類の構想について」『IDE現代の高等教育』,民主教育協会,57-58
*11:大崎仁文部省学術国際局長・第102回国会衆議院予算委員会第19号・1985年2月26日
*12:写真は試験を終えて学内循環バス停に集まる受験生の様子(1985年撮影・筑波大学アーカイブズ所蔵)。定員40名の募集に対し949名が志願し、入試当日はこのうち889名が受験した。



