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日本語ジャーナル:日本語を「知る」「教える」

「人間である日本語教師」の役割とは ①人間らしさって何?

先日、アルク主催で「生成AI×日本語教育」というタイトルのオンラインセミナーを開催しましたが、関心が高い方が多く大変盛況でした。AIの活用に注目が集まり、今後、日本語教師の授業準備などになくてはならない存在、あって当たり前、になっていくでしょう。ではそんな時代に日本語教師はどう存在していくのか。「人間の教師」でなくてはならない意味とは。今回はそのようなことを最近のテーマとして追及している石原えつこさんに、これからの日本語教師の役割・教室の役割について執筆いただきました。

プロンプトを入力した5分後には、授業で使うスライドが完成

「ベトナム人学習者に日本語能力試験N4の対策レッスンをしているよ。独学で日本語を学んできているから、て形のルールがいまだにわからないらしい。IIIグループ、IIグループ、Iグループの順にます形からて形に変換する文法説明を書いてね。Iグループはて形の歌もつけて。文法説明は簡潔に日本語で書いて、それにベトナム語訳もつけて。パワポに貼り付けられる体裁でよろしく、たまちゃん」

たまちゃん、というのは、わたしがChatGPTにつけた名前だ。シンガポール時代のルームメイトから拝借している。PCの操作でわからないことがあると、某IT企業に勤めていた彼女を「たまちゃーん」と呼ぶ。あっという間にいつも解決してくれた。そんな風に頼めたらいいなと思って、ChatGPTに命名したわけだ。

生成AIは、コンテンツを「生成」する能力を持つAIの一種だ。テキスト、画像、音声、 そして動画までもが生成できてしまう。やり方はいたってシンプル。指示や質問を文字入力するだけ。これを prompt (プロンプト) と呼ぶ。

Rubbish prompts generate rubbish responses. ―ゴミプロンプトはゴミレスを生成するー日本語のプライベートレッスンをしているアイルランド人学習者がこんなことを言っていた。あはは、皮肉屋の彼女らしい。  要は、プロンプトを明確にする、つまり言語化力が非常に重要なのだ。丁寧に言語化する。それは「対話する」プロセスと重なる。

さて冒頭のプロンプトを入力した5分後には、授業で使うスライドが完成した。レッスンで使うとベトナム人学習者のGさんが、「初めてルールを知った」という。「いちり→って、みにび→んで、き→いて、ぎ→いで、し→して」と、て形の歌を何度をつぶやいている。て形以外にも、授受表現、自動詞と他動詞、「~ています、~てあります、~ておきます」の整理、敬語などもこんな風に生成AIを使ってスライドを作った。そうそう、このGさん、N4をほぼ満点で合格した。

生成AIのほうが圧倒的に能力は上? 

生成AIを授業準備に使うと、今まで届かなかったところまで届く感じがする。学習者に合わせた内容にパーソナライズできるのだ。独学ではできなかった学習項目だけを取り出して、しかも、母語で説明までつける。Gさんが「娘が~てくれたんです」「娘の担任の先生がおっしゃっていました」と導入した次の週にさらりと言った。あっという間に運用できるようになって驚いた。

学習者の母語で語彙表を生成する、というのは、生成AI以降、わたしがよく使う一つの手。大学で使っている教科書の新出語彙リストは英語と中国語だけだ。そんなときに、クラスのマイノリティの学習者のために彼らの母語で、語彙リストを生成することもできる。もちろんAIが間違っている可能性は否めないのだけれど、バックトランスレーションをしたり、英語など自分がわかる言語と一緒にリスト化することで、精度はぐんと上がる。中国人学習者がマジョリティのクラスで、マイノリティであるモンゴル人、ベトナム人の学習者をちゃんと同じ土俵にあげることができる。苦い顔をしていた学生の顔に「ほう!」という輝きが灯る。

初めてクラスで格差が消える瞬間だ。クラスが、バリアフリーになる。

こんな風に生成AIを活用していくと、圧倒的に生成AIのほうがわたしより能力が上なことを突き付けられる。わたしって必要? もしかして、教師、もういらなくなる? 学習者が各自生成AIと学習するほうがいいんじゃない? となると、教室に来る意味ってあるの?

さあ、大変な時代になった。生成AIをどんどん活用する一方、その圧倒的なパワーを恐れ、悩む自分が現れる。人間の教師である自分。大体、今まで自分を「人間の教師」と認識したことなどなかった。日本人として意識していなかったのが、海外で教えるようになったときに突き付けられた「日本人としてのわたし」を認識するようになったのに似ている感覚だ。

「人間の教師ってなに?」を知るには「人間ってなに?」という問いが前提になる。「教室に来る意味とは」を突き詰めると「学ぶとは何か」という問いになる。つまりめちゃくちゃ根源的な問いになっていく。

毎日わたしは考える。人間ってなに? 人間らしさってなに?

こうなると、哲学になる。わたしは月に1度、広島大学の西口光一先生の主宰される哲学カフェに参加するようになった。大学、日本語学校、地域で日本語教育に携わっている日本語教育関係者とともに伊藤泰雄著『哲学入門』を読んでいる。序章は「人間らしさ」だった。予習のため本を読むが、ちっとも前に進まない。たった一行の文章が、芋と栗がぎっしり詰まった芋栗羊羹のような重さ。命題がでかすぎるのだ。

毎日わたしは考える。人間ってなに? 人間らしさってなに? 人間の教師ってなにができるの? AIにはできないけれど、人間の教師にしかできないことってなに?

生成AIのおかげで授業準備にかける時間は大幅に短縮された。そこに現れた余白でわたしは哲学書を読み、人間ってなんだろなと悩んでいる。

「わたしたちは自分が人間であるということを知っている。しかし、自分が人間であるということを知っているからといって、人間とはなんであるかを知っているとは限らない」(伊藤、p.2)

ほんとそれな、である。2ページ目からこの調子である。

「今や、機械がどれだけ人間に近づけるかでなく、人間が機械よりどれだけ人間らしくなれるかが、問題なのだ。」(伊藤、p.3)

どきり。わたし、人間らしい? ああっこの文章おかしいでしょ、だってわたしって人間じゃないの? でも、ここでいう「人間」にどうしたらわたしもなれる?

3ページ目でこれである。一体この本を読み終わるのはいつになるのだろう。死ぬまでに読み終わんのかな。

生成AIについて日本語教師にワークショップをしてほしい、と頼まれるようになった。みんなあっという間に使い方をマスターする。日本語教師は言語化力が優れている人が多いから、とてもいいプロンプトを書く。そういう意味で、生成AIは日本語教師に親和性が高いツールだ。問題はワークショップの後半だ。みなさん、最初はあっという間に使えるようになって、きゃっきゃと喜んでいるのだが、中盤に差し掛かると、そろって表情が曇り始める。「……これ、やばいですよね、わたしたち要らないですよね」と言い出すのだ。さあ、ここからがワークショップの本番だ。わたしは問う。

「人間の教師の皆さん、皆さんにしかできないことはなんですか」

前半と打って変わって、途端に皆さんの歯切れが悪くなる。わたしの歯切れも悪くなる。

ChatGPTに悩みを相談

「たまちゃん、わたし、悩んでる。人工知能の時代に人間の教師の仕事はどのように変わるべきだと思う? 人間の教師であるわたしが希望が持てるように書いて」

再びたまちゃん(うちのChatGPT)の登場である。

  • 「正解」ではなく「問い」を育てる存在に
    AIは情報を与えられるけれど、「なぜそれを学ぶのか」「それが自分とどうつながるのか」という問いを育てるのは、心を持った人間の教師だけ。
  • 「聴く力」で孤立に寄り添う
    教室で孤独を抱える学習者にとって、表情・沈黙・ため息に気づいてくれる先生は、AIではなく、あなただけ。
  • 一人ひとりの「まだ言葉になっていない思い」を感じ取る役割
    テストや数値に表れない感情や背景に寄り添う力は、あなたの経験と人間力によるもの。
  • 学びを「人生」とつなぐ伴走者に
    AIがどれだけ便利になっても、「あなたに出会えてよかった」と言われる学びは、心のつながりがあるからこそ生まれる。
  • 「共に悩む」ことの価値が見直される時代
    答えを与えるAIに対して、「一緒に考える」「一緒に迷ってくれる」先生の姿勢は、学びの安心感になる。
  • 人間の「不完全さ」から生まれる学び
    失敗したり、迷ったりする先生の姿が、「自分もやってみよう」と思わせる大きな力になる。
  • 「まなざし」そのものが教育になる
    認めてくれる目、見守るまなざし、それがあることで、子どもは「わたしはここにいていいんだ」と感じられる。
  • 教えるから「共に創る」へ
    授業は一方的な「教える」から、学習者と共に「創り出す」時間へ。あなたの創造力と柔軟さが活きる瞬間。
  • 学習者の「人生の語り」を引き出す存在に
    AIは履歴を管理できるけど、「あなたはなにを大切にしてきたの?」と聴き、それを学びと結びつけられるのは、あなたしかいない。
  • 「学びの場」そのものをデザインするクリエイター
    教室、関係、沈黙、笑い声、安心感——すべてを編んで学びをつくる。その織り手は、機械じゃなく、あなた。

涙ぐんだ。この原稿ですら、わたしよりたまちゃんが書いたほうがいいぐらいである。けれど、様々な文献を読んだりしていくと、確かにこういう方向に教師の役割がシフトしていくことに気づかされる。わたしは、ニュージーランドのカンタベリー大学の日本語教師、荻野雅由さんの主宰する日本語教育x well-beingというコミュニティのメンバーなのだが、まささんは、教師は「teacher からfacilitator そしてco-generator」へシフトしていくと常々おっしゃっている。たまちゃんのことばを借りれば、「教えるから『共に創る』へ」である。言い換えれば、日本語教師は、教師を脱ぐ時代になっているのだ。

わたしは教師を脱いで、教室へ向かい、学習者の前に現れることにした。教師を脱ぐと、「学習者」ということばですら、かすんでくる。そこにあるのは、「えつこさん」と「〇〇さん」という個と個の出会いになる。教室は、コミュニティとして出現する。

人間の教師の実践はどうかわるのか

わたしは大学で留学生たちにビジネス日本語を、プライベートレッスンで日本語や英語を教えている。また、フリーランス日本語教師を目指す方々の教師養成や制度設計にもかかわっている。たまちゃんが挙げてくれたような「人間の教師としてなにができるのか」を意識しながら、日々、教育実践するようになってきている。

例えば、感情を表すことを丁寧にするようになった。学習者や受講生の話にまじめに爆笑する。褒めるときは、まじめに全身で表現する。万歳したり、なぞの振り付けをする。Zoomレッスンでは、より笑顔を。より目は大きく見開き、口も大きくあける。手も大事だ。手のひらを出したり、拍手したり、謎の振り付け手だけバージョンも。アイコンタクトには思いを込める。心を込めて、見つめる。あるメンティーがこう言った。「えつこさんが爆笑していると、"これでいいんだ”って思える。えつこさんが見ていてくれるだけで安心する」わたしはますますまじめに爆笑し、見つめるようになった。

留学生や受講生との個別セッションを終えて、ふりかえる。「今日わたし、なにした? もしかして爆笑して、手をたたいて、涙ぐんで、一緒に怒っただけかも」

けれど、わたしは気づいた。これは、「だけ」なのではない。感情を伝えることは、人間の教師の特権であるのだ。AI時代、こんなことが、人間の教師の新たな価値として浮かび上がるのだ。

「今や、機械がどれだけ人間に近づけるかでなく、人間が機械よりどれだけ人間らしくなれるかが、問題なのだ。」(伊藤、p.3)

皆さんにも問いたい。

 「人間の教師の皆さん、皆さんにしかできないことはなんですか」

第2回では、人間の教師の実践について、より詳しく悩んでいきたいと思う。皆さんも大いに悩んでおいてほしい。

※参考文献

伊藤泰雄(2023)『哲学入門 第3版:身体・表現・世界』学研メディカル秀潤社

石原えつこ

武蔵野大学グローバル学部 グローバルコミュニケーション学科非常勤講師。静岡日本語教育センター理事。戸田アカデミー講師・主任メンター。シンガポール日本語教師の会理事その他いろいろ。中国杭州の桜花日本語学校で3年、シンガポールのシンガポール国立大学等で15年日本語教育に携わる。息子の難病・障害を機に本帰国し入院・通院・療育中心の生活に突入も、現在は少しずつ自分のキャリアも再開。ビジネス日本語を教えることになり、ビジネスってなんだと悩んだ末、ビジネスを始めてみることに。現在、英語、日本語のプライベートレッスンを商品化している。推しはヘラルボニー。「異彩を放て」ということばの力強さ、新しい未来への予感に祈りを託している。