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日本語ジャーナル:日本語を「知る」「教える」

翼を授けてー小出詞子と日本語教員養成ー

現在、国内外における日本語教育への需要はますます高まり、教員養成のさらなる推進が急務となっています。国家資格「登録日本語教員」制度の開始や各種研修の充実、各機関における養成課程の拡充に取り組まれる中、日本語教員養成のあり方をめぐる検討は極めて重要なトピックとなっています。新しい時代に求められる日本語教師の専門性や資質能力とはどのようなものなのでしょうか。また、養成に際していかなることに留意していく必要があるのでしょうか。今回は、戦後の日本語教員養成課程の形成と人材育成に尽力した小出詞子に着目し、その取り組みと考え、追求された日本語教師の人材像と養成担当者の人材像についてお話しいたします。

農政学者の子に生まれて

小出詞子は、今から103年ほど前の1921年6月23日に小出満二・貞子夫妻の四女として鹿児島県に生まれました。父満二*1は、東京帝国大学を卒業後、ドイツやイギリス、アメリカでの遊学をへて、シドニー大学交換教授や文部省督学官、九州帝国大学農学部教授、東京高等農林学校校長、鯉淵学園初代学園長などを歴任した農政学者でした。

内村鑑三に学び夫婦で新渡戸稲造の聖書研究会にも参加したクリスチャンの満二は、娘たちを日曜学校へ通わせキリスト教に導きました。そしてまた、身をもって国際的視野や学問への道を示した存在でもありました。詞子はその背中を見ながら、父の赴任先である鹿児島や東京、福岡を移動しながら成長し東京女子大学に入学することになります。文学部英語科で英語学やシェークスピア文学に触れ、また、言語学への関心も在学時に持ち、その後の言語学・言語教育学への素地が築かれていきました。

長沼直兄との出会いと養成講座の受講

英語を専門とした小出詞子ですが、文部省の派遣日本語教師養成講座を知り1942年に受講することとなります。当時を次のように振り返っています。

太平洋戦争が始まって数ヵ月後で、敵国の言葉だからという理由で英語は教えることも習うことも禁じられ、英語はもちろんカタカナ語(外来語)も使えない状態だった。当時、私は東京女子大学4年で、卒業を控えどうしょうかと考えていた。英語を専攻し、教員資格はもっていたものの、それは使えそうもなく、他に自分の能力を生かせる道もなさそうで悩んでいた。それでためらうことなく文部省の募集に応じ思いがけなく合格し、数か月の教師養成講座を受けた。*2

この講座で、小出は父の他にもう一人大きな影響を受けた人物と出会います。それが、戦前戦後の日本語教育に重要な役割を果たした長沼直兄で、後に「先生との最初の出会いで、それがその後の私の進路をきめたと言っても言いすぎではない」*3とも語っています。

小出が受講した養成講座は、当時、日本語普及に際して教師育成が重要視されるようになり設けられたものでした。どのような内容だったのでしょうか。第6回目に開催された講座内容の一覧が雑誌『日本語』に掲載されています*4

ご覧いただくと、日本語の文法や教授法、日本語普及史、日本文化史、そして現地事情に至る幅広い領域について、長沼直兄をはじめ当代一流の専門家等によって解説されていたことがわかります。

日本語教員養成が組織的に行われるようになった当時の背景と課題について、大出正篤は次のように述べています。

日本語致師が養成され大東亜各地に配せられることになつたのは喜ぶべきことであるが、単に教員養成が統制され、頭数を揃へて送られるといふだけでは我々は満足出來ない。それ等の教師が如何なる方針のもとに養成されるか、如何なる錬成を経て派遣されるかといふことが大切な問題である。(中略)日本語教師の人物や教養の差も甚しく、教授の方法等もまちまちであった。その結果、日本語教授の成積が揚らないばかりでなく、相互の連絡とか融和とかいふ話でもうまく行かない憾みがあった。かうした弊を認めた日本の文教當局は、現地の監督機関と協力して、その統制に乗り出したのである。そして先づ日本語教師の現地採用を禁ずるといふ方針を定め、教師の資格を規定し必要な教師は日本内地で纏めて大陸各地に送るといふことにした。この数年間、その方針が續けられて現在に及んでゐるのである。*5

大出は、南方への日本語教師派遣と養成は、1937年以降の中国大陸への日本語普及のプロセスと重なると指摘し、中国大陸への日本語普及では現地採用ではなく日本からの派遣方針に切り替えたことや、日本語教師の資格を規定し日本で養成して派遣することになった経緯などを述べています。その上で、「日本語教師としての錬成の必要をも痛感するのである。教授法の實際的な智識を與へた上に、更に教壇上に立たせての實施錬成をも施すべきであると主張したいのである*6と述べ、特に教壇実習の重要性を指摘しています。さらに、膨大な範囲に及ぶ養成範囲については、まずは、音声言語の指導法習得を重視すべきで、とりわけ初級教育の方法や内容についての育成に力を入れなければならないと論じています。いかがでしょうか、現在もなお課題とされていることがいくつもあり、また、教師資格などについてこれほど前から論じられていたことに驚く方も多いのではないでしょうか。

小出は養成講座を受講した後、1943年1月にフィリピン派遣第1陣69名の一人としてフィリピンへと赴き、マニラのサンアンドレス師範学校付属小学校で現地の日本語教師の質向上のためのモデル授業などを担います。そして、ラコンソラシオン大学、ホーリーゴースト大学で日本語を教えます。教科書は『ハナシコトバ』と『日本語讀本』などが用いられました。

国際基督教大学での日本語教員養成

小出のフィリピンでの日本語教育活動は戦況の悪化から長くは続かず、1944年には帰国命令が出て日本に戻ります。ほどなくして終戦を迎え、小出はそれまで学んだ英語や日本語教育の経験を用いた仕事を軸に取り組みます。父が園長をつとめた鯉淵学園や連合軍総司令部民間情報教育部での英語教師や通訳、雑誌検閲などに従事しました。また、1948年に東京日本語学校での日本語教育が開始すると、小出は長沼直兄の招きで宣教師への日本語教育に従事します。そして、1950年にはガリオア奨学金でミシガン大学大学院に研究生として留学、英語学や英語教育を学びました。1952年に国際基督教大学が創設されると英語研修所助手として着任し、英語教育に従事します*7

大きな転機は1953年に訪れました。国際基督教大学での留学生受け入れが開始され、小出は教養学部講師に就任、留学生への日本語教育に従事することになったのです*8。スタッフと共に国際基督教大学の日本語教育の発展に力を尽くし、未整備であった日本語コース/プログラムの開発や、当時数少なかった日本語教科書の開発取り組み、その後、他機関のモデルや拠り所にもされた日本語集中講座『Intensive Japanese』や初級日本語講座『Elementary Japanese』、日本語教科書『Modern Japanese for University Students』などを実現させます。

そして、しばらくすると、小出の活動のもう一つ大きな軸として、日本語教員養成にも力が注がれることとなります。国際基督教大学の2期生として入学し、その後、東京大学や国立国語研究所、東京女子大学などで日本語教員養成や日本語教育研究に功績を残した上野田鶴子は、学生時代にアカデミックアドバイザーとしての小出と出会い、学生時代から指導を受けました。小出は、上野をはじめとする学生たちを日本語教育へと誘います。

「私の画期的な日本語教育の訓練」と上野が述懐するのは、国際基督教大学の四年次にシニアフェローになったことです。シニアフェローとは、奨学金を受給し、かつ、授業料が免除される代わりに、教授活動を行うという制度で、小出の指導の下、今田滋子(後の広島大学教授)と共に、初級日本語を学ぶ科目『Elementary Japanese』を受け持つことになりました。

(小出)先生の頭の中には、日本語教育のきちっとしたカリキュラムを学んだ、日本語教育の方法を学んだ人が、いつの日か教壇に立ってほしいというのが願いだったと思うんですよ。先生はいち早くね、受講した者を活用しようと思われたんだと思うんですね。だから、実習の場を、ご自分の監督下で1年の『Elementary Japanese』、教えさせてみようということを、すごいそれは決断だったと思うんです。*9

国際基督教大学で学ぶ学生たちを日本語教育の専門家として育てるという考えが小出には確かにあり、当時の学生たちもそれに応じ懸命に努力しました。さらに、「小出先生から『卒業したら次は留学ね』と背中を押されました。留学といっても当時手立てがなかった時代ですから『どうすれば留学できますか』と聞いたら、先生は『試験(フルブライト・プログラム)を受ければいいのよ』とおっしゃったんです」*10というように、アメリカ留学への道や、学生個々の適正に応じた道へと背中を押されながら進んでいくこととなります。

日本語教員養成にかけた想いと学内外における取り組み

小出が教員養成にかけた想いとはどのようなものだったのでしょうか。小出は後年、自らも創設に関わった日本語教育学会が刊行する学術誌『日本語教育』に、当時の様子と考えについて寄稿しています。

1953年、ICU(国際基督教大学)開学とともに留学生が入学、集中日本語教育が始まった。その時に、一番困ったことは既製の教師が得られないことだった。もちろん日本語教育とか日本語学とかいう分野はなく、日本語教師は職業として認められていなかった。それでやむを得ず、自前でやろうということで、まず教授法(1単位)で始め、翌年からだんだん拡張して1961年には専攻分野として確立された。初めはICUのスタッフを育てるために設けた講座だったが、終了生がアメリカに留学しGraduate Assistantとして日本語を教えて高い評価を受けたこともあり、他所では教師養成をやっていなかったこともあり、だんだん需要が多くなった。*11

1950年代は日本語教育の専門家そのものがほとんどおらず、職業としても認められていませんでした。そこで、小出は、自前で育てようと考え『教授法』という授業からはじめ、1961年には日本語教育の専攻分野を確立します。国際基督教大学での学修やアメリカへの留学などを経た人材たちはその後、日本語教育の専門家として高い評価を受け活躍していくこととなりました。小出は、教員養成に際して重視したことについて次のように述べています。

日本語について教えるのでなく、日本語を教えること。教師は、学生が早く日本語を習得するよう、協力すべきこと。よい教師とは、学生により早く、より正確に日本語を習得させること。能率をたえず心掛け、そのために使えるものはすべて利用する。学生の文化・言語を知って日本文化・日本語との対照研究に努める。必要な時には学生の言語を武器として使う。(中略)さらに心掛けたことは、授業中にすべてをカバーすることは不可能なので、規則を身につけることによって、応用力をつけさせることに努めた。(中略)カリキュラムは、初期のころは、当時としては精一杯工夫した。幸いなことは、ICUでは、教養学部という性格上あまり専門化せず、むしろ広く教養を身につけることが奨励されていたので、関連分野(文学、文化など)は他学科から自由に履修でき、言語学・語学の講座も、小さい大学にしてはかなり豊富にあった。だから、日本語科の中では日本語プロパーの講座に集中できた。*12

日本の文化とことば、そして、学習者の文化とことばについて理解し、言語学や語学、文化や文学について学びながら日本語教育の専門について知見を深めることのできる養成プログラムが確立されていったのでした。

翼を授けて―人材の雄飛を後押しした半世紀―

小出の活動は、その後も、外国人のための日本語教育学会(現:公益社団法人日本語教育学会)の設立や運営、外務省委託海外日本語教育調査の担当、短波放送「Let’s Learn Japanese」の担当など多岐にわたって展開します。そして、教員養成については、1973年に朝日カルチャーセンターが設置されると、翌年から朝日カルチャーセンターにおける日本語教師養成講座を立ち上げコーディネーターに着任します。さらに、1987年には、姫路獨協大学外国語学部日本語学科長に就任し、学部と大学院レベルでの日本語教育に従事しました。

小出は、養成講座の内容だけでなく、その養成担当者の資質・能力についても検討が必要で、養成講座の担当講師についても資格認定制度を設けるべきであると後年主張しました。

私は教師養成とか教授法とかいうものは教えられるものではないという固い信念を持っている。それでは何をするか、というと、先輩が自分の経験を分かちあうことによって、養成講座を受ける者が先輩より少しでも上のレベルからスタートできるよう、同じ失敗をくりかえさないようにさせることだと思う。ということは、養成講座を終了すれば、完成した教師ができあがるというものではなく、じつは終了してから、さらに教えはじめてから、自分で努力、工夫、研究することによって、実際の訓練が始まるといえる。従って養成講座では、どう努力したらいいか、どう研究すべきか、をつかませる必要がある。そのためには、養成講座の講師になる人は、先輩になるに価する十分な現場の経験をもっていることが必要だ。さらに、自分の経験を反省、分析、研究し、後輩に正しく伝えられる研究業績というより研究能力を持っていることも必要だ。もし前者だけだと、技術に走る可能性があり、後者だけだと、頭でっかちになる恐れがある。養成講座の講師の資格認定が必要ではないのか。(中略)して絶対強調すべきは語学力である。この場合、語学力とは活用能力を指す。すなわち、発音、文法などの簡単な対照研究ができること、日本語を教える時に簡単に説明できること、初級の学生からの質問を理解し答えられること。日本人はみな英語を習ったはずだが、活用能力があるとは限らない。まず英語の活用能力をつけることが必要だろう。さらに非欧米語を少なくともひとつ習得することが望ましい。非欧米語を習うことによって日本語の性格がより鮮明に浮き出てくるはずだ。*13

教員養成を担う人材は、自身が歩んだ道のりや経験を分かち合い、受講生たちが自ら努力と工夫をし、研究することができるよう導く力を持つべきであると小出は言います。そのためには、十分な経験が必要であり、さらには、自らのそうした経験を反省、分析、研究し、後輩に正しく伝えられる能力を持つことが重要であると小出は述べます。このことは、小出自身が1942年に初めて養成講座を受けて以来、海外派遣や留学、各機関での教育や研究を通して得た経験、さらには、それらをもとに後進たちを育てた半世紀に及ぶ活動と重なります。

小出が育てた人材は、その後、日本語教育という翼を携え国内外に羽ばたき、さまざまな機関の中枢を担いました。現在では、それらの人材に育てられた人材が各所で活躍もしています。一つの大学に留まらず、さらには、特定の教育段階に限ることなく、地域社会への眼差しや国際的視野を持つ多様な日本語教育人材を育て、数々の若人の背中を押し雄飛へと導いた小出の功績は、現在の日本語教育の大きな支えの一つとして今も生きているように私には感じられます。そして、新しい時代に求められる日本語教師の専門性や資質能力を考える上でも、多くの教示を与えてくれるものと考えられるのです。

            

小出詞子(Fumiko Koide)

1921年鹿児島県鹿児島市生まれ。父に農政学者の小出満二が、また、姉に科学史家の吉村証子がいる。1942年、東京女子大学卒業。文部省南方派遣日本語教員養成講座で長沼直兄と出会い、翌年、文部省第1次派遣日本語教師としてフィリピンに着任。1944年に戦況の悪化から帰国命令。1945年、文部省教学局でテキスト編集に従事した後、父が園長をつとめた鯉淵学園で英語教育に従事。1947年、連合軍総司令部民間情報教育部顧問に着任、通訳や雑誌検閲などに従事。1948年、東京日本語学校が創設され、長沼直兄の誘いで宣教師のための日本語教育に従事。1950年、ガリオア奨学金でミシガン大学大学院に研究生として留学、英語教育を学ぶ。1952年、国際基督教大学が創設され助手として着任、英語教育に従事。1953年、国際基督教大学での留学生受け入れに伴う日本語教育に従事。1959年、ミシガン大学大学院に留学しM.A. in Linguistics取得。米国国務省主催日本語教育専門家会議やジョージタウン大学の日本語教師セミナーに参加。1961年、国際基督教大学に日本語教員養成講座が認可され翌年から日本語教育専攻科目の充実に取り組む。日本語教育シンポジウムを開催し後の外国人のための日本語教育学会(現:公益社団法人日本語教育学会)発足の契機となる。1962年、外国人のための日本語教育学会が発足し理事に就任。1967年から1969年にかけてフルブライト研究員としてマサチューセッツ工科大学・ハーバード大学に滞在。1971年から1972年にかけて、外務省の助成によるオーストラリア、東南アジア諸国、ヨーロッパ諸国の日本語教育調査を担当。1974年、朝日カルチャーセンターにおける日本語教師養成講座を立ち上げコーディネーターに着任。1976年、短波放送「Let’s Learn Japanese」を担当し20年にわたって再放送される番組となった。1976年、国際交流基金の助成で大洋州の日本語教育の調査を担当。1984年、国際基督教大学日本語教育30周年記念シンポジウム開催。1987年、国際基督教大学を定年退職し姫路獨協大学外国語学部日本語学科長に就任。1991年、日本語教育専攻が可能な姫路獨協大学大学院言語教育研究科を設置。日本語教授法と日本語教科書の開発と研究、国内外における日本語教育の振興、日本語教員養成課程の設置と運営、に力を注ぎ多くの日本語教育人材を育成した。1991年に古稀の祝賀会が開催され、小出記念日本語教育研究会が発足。1993年、勲四等瑞宝章受章。2002年没(享年80歳)。

*引用文中の下線は筆者による

執筆/田中祐輔

筑波大学教授。主な著書に、『日本語で考えたくなる科学の問い』(編著・凡人社)、『上級日本語教材 日本がわかる、日本語がわかる』(編著・凡人社)、『現代中国の日本語教育史』(単著・国書刊行会)、などがある。主な受賞に、第32回大平正芳記念賞特別賞、2018年度日本語教育学会奨励賞、第一回岩佐賞、第14回キッズデザイン協議会会長賞、2023年度グッドデザイン賞、などがある。

*科学技術振興機構 researchmap

*研究室

*1:小出満二(こいで まんじ)1879年、兵庫県養父郡伊佐村生まれ。第一高等学校を経て1906年東京帝国大学農科大学卒。ドイツ、イギリス、アメリカへ留学。1914年、鹿児島高等農林学校教授、1918年から1920年にかけてシドニー大学交換教授。1921年、文部省督学官。1928年、九州帝国大学農学部教授。1936年、鹿児島高等農林学校校長兼務。1938年、東京高等農林学校校長。1945年、定年退官し東京高等農林学校名誉教授。1945年、正三位。1951年、鯉淵学園初代学園長。1955年没(享年76歳)。没後、勲二等旭日重光章受章。写真は、実業教育五十周年記念会(1935) 『実業教育五十周年記念会誌』に掲載されたもの。

*2:小出詞子(1987)「『日本語教師養成』遍歴」『日本語教育』63、p42

*3:小出詞子(1973)「長沼先生との出会い」『日本語教育』19、p8

*4:日本語教育振興会(1943)「彙報」『日本語』12、日本語教育振興会、p69[国立国会図書館デジタルコレクション・18379]

*5:大出正篤(1942)「日本語敎師の鍊成 /」『日本語』12、日本語教育振興会、pp82-83

*6:大出正篤(1942)「日本語敎師の鍊成 /」『日本語』12、日本語教育振興会、pp84

*7:本記事一枚目の写真は、設立時から在学生・教職員・同窓生などに利用されている大学本館の様子。1944年に中島⾶⾏機三鷹研究所の設計本館として建設された建物で、1953年の建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズによる全面改修を経て、現在まで国際基督教大学の中⼼的な施設として機能している。写真手前の本館前芝生広場は、留学生と学生・教職員との交流の場ともなった。[撮影:吉富祐一氏 提供:国際基督教大学]

*8:日本語部門のヘッドとしてICUランゲージ・ラボラトリーにて学生指導を行う様子。[出典・提供:ICUアーカイブズ(P-04-03-043)]

*9:日本語教育100年史(2018)「一本の道をゆく−つながり分かち合う日本語教育環境の構築−」上野田鶴子氏映像証言アーカイブhttps://oralhistory-jle.com/archive/194/

*10:日本語教育100年史(2018)「一本の道をゆく−つながり分かち合う日本語教育環境の構築−」上野田鶴子氏映像証言アーカイブhttps://oralhistory-jle.com/archive/194/

*11:小出詞子(1987)「『日本語教師養成』遍歴」『日本語教育』63、p42

*12:小出詞子(1987)「『日本語教師養成』遍歴」『日本語教育』63、pp43-44

*13:小出詞子(1987)「『日本語教師養成』遍歴」『日本語教育』63、pp49-50